消えていく言葉

 

 

 

必要と十分は違う。十分なら必要に駆られることはない。曇った夜空を見上げた一点のぼやけた光を月と分かるのは何回も見たことがあるからだ。時間は回数に換算できる。歴史が一直線に進んでいるという観念はキリスト教由来らしい。仏教であれば時間は回っている。輪廻というより循環で。ならば、無神論者に流れる時間はどうなるのか。物理学というならとっくに時間は相対的で、ベクトルであればキリスト教のつまみ食いでしかない。ゆるやかに時間と変化を一致させているだけなのかもしれない。

 

今週の仕事は土曜日もあるため明日の弁当が簡略できるようにお副菜を多めに作る。小松菜を茹でて、いりこと鰹節と和えて醤油を1たらし。料理の回数はカウントしても回数を財産にはしない。少しはできるようになったのかもしれないが、そんなことはどうでも良いこと。

 

信仰と狂気を一致させるのは、おそらく信じるが信念に寄せられているため。安定のために何かを信じるということは誰でもやっている。帰属意識というもの。どこかに属することで安心する。信仰も同じようなもので、信じる対象から効用を得るために何かをし続けるということ。帰属意識の方は宗教上の行為よりは一般的なものだからあまり意識されない。誰だって何かを信心して行動している。為、とか交換とか。

 

継続には信念が要るというのも、やっかみの一種のように見えなくもない。続けたければ続ければ良いし、やめたければやめれば良いだけのこと。こんなことに信念なぞ要らない。こういった何かと自分を紐づける観念こそが信仰みたいに見える。人生は暇つぶしでしかないと談志さんが言っていた。

 

信仰の最終地点はおそらく存在しないものを自分とは無関係に存在するものと承認することだと思われる。もともと信仰の対象は自然で、太陽信仰とか天災を収めるために人身御供をするとかがあったが、そもそも客観的な現象でしかなかったとなり、人は自然をただの世界に在るものとして捉えるようになった。これから発展させると、神様が存在するとしても神様に祈ったら何かが返ってくるとか、神様に向けた行為の継続をしなくても神様はただ在るものだとなるのではなかろうか。自分と紐づいていない存在を承認すること。ここに何か返って来る要素があったら汚れる。自分が何も信じていないと信じられるのはなかなか重症かもしれない。

 

やっと1人になれた僕はほのかな寂しさと解放感がセットになっている。離れる条件をひそかに設定していて、それを充たしてくれたもので。ある意味最後の現実的なとっかかりではあった。

 

あとは、自分だけの言葉探しの世界。暇つぶしをどれだけ充実させるか。もちろん言語化は共有化とセットだから最低限の体裁を整えながらだが。

 

当然ながら、自分が自分であることも信仰じみている。自分の誰かに対する感情は自分がその感情を信仰している限りにしかないもので、何かの拍子に霧散するものでしかない。感情は反応でしかなくて、それほど当人を示しているとも思わない。どんな感情でも顕われていいというのは、親しみではなく、当人の内側の世界になっているからというだけ。そうなると別に相手のことを自分と等価の存在としては見ていないのだろうなと思う。主人公性的世界観。

 

ともあれ、一過性的に良い風に言動するのは誰でもできる。たぶん、人間に備わった機能。これで言うなら対象は誰でも良いのは確か。これすらできないのはもう英雄譚みたいな世界を生きているだろう。継続としても、リスクが低くてリターンが高いなら、そりゃあ続けるに違いない。ここに何かの意味を見つけたのがおこがましかった。さっさと言ってくれれば良かったのに。

 

まだ言葉が自分になってないなぁ。惰性的な感情がこびり付いている。

 

もうただ在る人と見ることにする。なにせ、

 

はい、おしまい。