偏在


休日の食生活は、平日に溜め込んだ冷凍ご飯を消費することが主眼であり、自炊はどうでも良い、朝はレトルトカレーとらっきょうの甘酢漬け。昨日買ったときに大量に買っている人が居て凄い食生活だなと思ったのだった。食系のブロガーかな。湯せんもせずにそのままレンチンで済むのはレトルトカレーの進歩。昼ご飯はカップ焼きそばと冷凍ご飯1玉。なんとも独身男性の食生活だが、ほんとに全然こだわりがない。ただ、炭水化物取り過ぎると体が重くなるから平日はやっていないだけ。炭水化物と油分は満足度が高いが、あとがしんどい。

 

体が求めるものってあんまり一致していないような気がする。

 

さておき。

 

本日も色々考えたし、読んだ。随分とどうでも良いことも一緒に思い出す。ゼミでの飲み会の自己紹介での緊張の中自分が言った言葉とか。発表第1号のペアだったから、自分が悪く方向づけたかもしれなくてすみませんでした、みたいな。民法のゼミで、判例集に載っている裁判を1個選んでどういう事実関係だったのか、問題となる条文はどれか、それに対する学説はどうか、そうして自分達の見解はどうなのかを発表する。今思えばもっと面白そうなの選べばよかったと思うが、何も知らないに等しかったから仕方ない。意思表示の到達は相手の支配圏内に入った時に生じるという話で、省略。

 

あとは高校時代の硬式テニス部の最後の大会の個人戦。緊張の中一回勝ってしまったのだよな。二回戦は優勝候補の人に当たり覚醒も届かず負けた。サーブは絶対入ると思っていたしちゃんと入るみたいな、ゾーンに入っていた。これも今思えばもっと日頃から自分の体の可動性というか操作性とか戦略とか中のことを考えれば良かったが、そういう手法は知らなかった。部活時代のエピソードもきりがないから省略。もっと争って良いという観念があったら良かったかな。

 

本を読んだり考えたりする効果ってなんだろうな。一般的には確固とした自分を前提として財産を積み上げることなのだろうが、僕としては自分の中身も含めた世界を留められるようになるとか、自分を再発見するとか、翻して他人の見え方が変わるとかだから、持ち物が増えるではないんだよな。これが分かってから読み物が楽しくて仕方がない。

 

ともあれ。

 

自分史を遡りながら、人の軸について考えてみる。

 

軸って、世界に影響を受けない確固たるものとされているみたい。でも、本当にそうなのだろうか。僕はもともと世界に対して自分を表現することがとても苦手で、自己主張ができない優柔不断な人物と評されてきた。たしかにそういう角度から見ればそうだのだが僕はもともとこういう文脈では生きていなかったのかもしれない。すぐ影響受けるし、自分が採り入れることができそうな現実的挙動はすぐ試行錯誤するし。あんまり高尚な目的観念はもっていないが、人から見れば向上心と評されるのは分かる。どうでも良い。

 

おそらく一番飲んだだろうかつての友人が軸の話をしていたから書いているのだが、この友人は僕の中に軸があると前提としていた。中庸とか言ってくれたが、僕は基本的に偏れない。この偏れないというのは、反対の見解があるとかではなくメタ的に世界を捉えているからだと思われる。

 

僕は自分の人格を主観的に規定していないが、自分で在ることは前提としているから、何かに影響を受けたり制限されたりすることによって自分が変わったとは思っていない模様。もともとこういう奴だったなと改めて発見しただけ。自我が形成する前の話で何処かで読んだ。女の子は主観で語るから客観が見えるようになって大人で、男の子は主観であまり語れないから自分を見つけてみたいなことから、僕は自我が形成されていないものだと思っていたが、自我なぞもともと問題としていなかったのだと思う。

 

ここでいう「自我」は自分が自分であることというよりは、自分以外に承認されたい存在という意味。承認ではなく認知なのかもしれない。メタ的に人の軸を観測しようとするのはなかなか面白い。変えられないと思い込んでいる自分を自分と前提としている人が多い。その見解は本当に考えて吟味したものなのですか、とは問わない。

 

メタ的世界観は、文章でもそう。文章は自分が書きたいこととかはどうでも良く、誰かに読まれて初めて完成する。言葉のもともとの機能でもそうだし、僕は気を抜くと何も書けなくなるので。伝えるみたいな高尚な観念ではなく、ただあるものを言語化しているだけ。

 

これに気付いたのは、劇評というものを書いてみたことから。探そうと思えば見つけられると思うが、まぁそんな奇特な人はいない。お金もらって書いたから誤字脱字はないはず。

 

当時の恋人さんがやってみたらと勧めてくれたから公募に応募してみて採用されて書いた。外に向けているのだが、自分が読み取った感覚を誰かが読めるように書いている。印象は言語化に馴染まないし、印象を全て言語化するのではなく、読めるように変換する作業。最初の劇評は当時の恋人さんの水準を読み手として書いた。以後は、絶対に読まざるを得ない演劇関係者に向けている。どこに向けようが自分がないとそんなことは書けないのだが。

 

自分の言葉がないというのはこういうところ。


ところで、理由の話。

 

人って、何かしら理由を求める訳だが、社会に拡げるととてもよく分かる。社会的システムには理由がないといけない。法律が典型的で、人を規制するためには目的がちゃんと公衆に分かるようにする。理由が手段を統制している。分かり易い例で言えば、自動車でスピード違反を罰するのは他に危険だから。

 

だから、他人のなにがしに理由を付けるのも仕方がない。理由なき行為なんて意味が分からないから、何か理由をでっち上げないといけない。法律学もでっち上げ感が否めないのだが、納得されるでっち上げなら問題はない。

 

ただ、こと自分に関しては、理由付けを問題にしなくてもいいではと思う。確かに公的には理由をでっち上げないといけないが、素朴では理由と現実を一致させていないのが普通では。このでっち上げを言葉とするというのはとても分かる。言葉は物理的な自分からすればやや自由ではある。自分の語彙からは離れられないけども。

 

あと、可処分時間は、良いか。

 

睡眠大事。

 

おやすみなさい。